漫才の仕組みを考えてみる

ソフトウェアエンジニアの職業病みたいなものなのか、僕には物事を抽象化して考えたくなる癖がある(ソフトウェアエンジニアにとって物事を抽象化して考えられることは必須能力だと思う)。何かについて考える時、この本質はなんだろう?みたいなことをよく考える。

以前、僕は「漫才って何なんだろうな」と考えたことがあった。なぜそんなことを考えだしたか定かでないが、僕はお笑い芸人はものすごく頭の良い人たちだと尊敬している。どうやったらあんな思考になれるんだろうかとか考えているうちに、漫才って何だ?というところにたどり着いたのだと思う。ちなみに僕は趣味でラジオなどにネタを投稿したりするので、そういったことも影響したかもしれない。(参考記事:IPPON

で、漫才について考える上で、僕はまずボケとツッコミって何だろうということをまず最初に考えた。ボケるとは、パッと思い浮かぶのは、変なことを言うことといった感じだろうか。で、変なことってなんだろうと考えると、それは常識から外れたことかなと。でもって常識って何かなと考えると、みんなが持ち合わせている共通のイメージとかルールみたいなものかな。なんてことを連想しながら、最終的に、ボケとは、演者と聞き手などの頭の中にある共通のルールからズラした発言・行動のことだとなった。そしてツッコミとは、ボケの人のズレた考え(発言・行動)を共通のルールに引き戻す行為だと言えるんじゃないかと考えた。

結果、漫才とは、共通のルールからズレたことを言うボケとそのズレを正したいツッコミの綱引きみたいなものかなという感じになった(あくまで僕の中で)。ちなみに、面白さは、どのようにズラすかと、どのように戻すかといったところで決まるのではないだろうか(「言い方」とか「間」とかもあると思うが、それは仕組みではなので考えない)。

ちょっと話はそれるが、以前、政治の風刺がある海外の笑いの方が日本よりレベルが高いという趣旨の発言をした学者がいた。でも漫才の仕組みを考えてみると、その学者の考えは間違っているだろうなと僕は思う。

外国は日本と違い多種多様な民族、文化が混在しているので、みんなに共通するルールみたいなものが存在しづらい。その結果、文化とかにあまり依存しない政治ネタ(あと下ネタも)が笑いのテーマとして選択されることになってしまうのだと思う。レベルが高いから政治のネタをしているのではなく、それくらいしかないから政治をテーマにしているのではないか。

僕が考えた漫才の仕組みには、みんなの頭に描かれる共通のルールという軸が存在する。日本ではどの地方に住んでいても、およそ同じ文化や環境で育ってきたと思う。なので共通点が多い。要は軸となりうることのバリエーションが多いのだ。例えば、日本全国どこで暮らしても同じような学生生活を送り、流行りの番組を見たり、音楽を聴いたりといった感じだ。同じ時代を生きている人であれば誰もが知っているという事柄は多い。

僕はむしろ日本の笑いの方がよりクリエイティブでレベルが高いと思う。政治のネタが少ないだけで、それ以外のパターンが多種多様だからだ(政治のネタがないのも、叩いたりしてくる人がいて損するから触れないだけで、できないわけではないと思う)。さらには多様なだけでなく、0から共通のルールを作り上げて、そこからズラすみたいな海外のお笑いにはないであろうパターンも存在する。日本のお笑いが海外に劣っているなんてことは絶対にないと言いたい。

なんだか今回は、僕の思考の過程というか頭の中を吐き出したようなブログになってしまった。たまにはこんなこともありってことで勘弁していただきたい。おしまい。