負けの美学

先日、将棋の藤井七段にとっての初のタイトル戦、棋聖戦が行われていました。最年少でのタイトル挑戦ということでニュースでも多く取り上げられていたので知っている方も多いのではないでしょうか。

対局は、終盤まではどちらが勝つかわからない互角の展開が続いていましたが、だんだんと藤井七段が優勢となっていきました。最後はタイトルホルダーである渡辺棋聖による16連続王手を掻い潜り、藤井七段が逆王手をしたところで渡辺棋聖が投了し、藤井七段の勝ちとなりました。

将棋の勝敗は基本的に負けを認めた側がその意思を表明(投了)することで決します。基本的には王将がこれ以上逃げ場がなくなってしまうところ(詰み)までは指したりはしません。また、詰みがなくても形勢をひっくり返す余地がなければ、自ら負けを認めて負けましたと頭を下げることもあります。

ちなみに、どのタイミングで投了するかは人それぞれです。最後の最後まで粘ることもありますし、これ以上やっても勝ち目がなさそうだというところで比較的あっさりと投了することもあります。そのあたりは棋士の価値観がでるところです。

また、どのタイミングで投了するかということの他にも、どういった形で投了するのかというポイントもあります。

例えば先の棋聖戦では、最後、渡辺棋聖が王手をして藤井七段が桂馬でそれを防ぎつつその手が王手となる逆王手という形になりました。そこで投了となったのですけど、おそらく渡辺棋聖はあえてこの形(逆王手で終わる形)を選択したのではないかと僕は思います。

この対局は、渡辺棋聖が16連続王手の直前ですでに崖っぷちまで追い詰められていました。連続王手は最後の力を振り絞った猛攻といった感じです。もしこの攻めが決まれば逆転勝ち、耐えられてしまったら負けといった状況でした。

渡辺棋聖も途中までは勝つ可能性があると信じて王手を続けていたのだと思いますが、どこかのタイミングでこれは耐え切られてしまうなと悟ったように思います。

ただ、そこですぐ投了するのではなく、あえて逆王手の形になるまで指し進めたように僕は感じました。この形が負け方として美しいという考えがあったのではないでしょうか(僕は将棋を見るだけで指し手の内容についてはよくわかっていないので、素人目に見てそう思えたということですけど)。

対局でどのような手を指したかを記録しているものを棋譜と言うのですが、その棋譜を評価する際、美しいと表現することがあります。見る人によっては芸術作品だと評する人もいます。

そういったこともあってか、どのような形で終わるのかも記譜の美しさに影響するので、棋士の価値観がでるところなんじゃないかと思いました。そういったところからも将棋からは負けの美学みたいなものを感じます。

僕が将棋中継を見る理由の一つとして、投了のシーンからいろいろな感情が伝わってきて引き付けられるものがあるからというのがあります。初めて中継を見た時の投了シーンが印象的で興味深いなと思うようになりました(こちらの記事参照)。

もし興味があったらABEMAとかで中継しているので見てみてください。何か感じるものがあるかもしれませんし、ないかもしれません(笑)(対局は長時間やっているので全部見るのはしんどいですし、かといって最後だけ見て何かを感じられるかなぁというのもあるので・・・)。