2019年5月19日の日経新聞に「「意識の移植」が問う倫理」という記事が載っていました。(記事へのリンク)
それは脳科学者の方のインタビュー記事で、科学が進歩すれば、いずれ機械に意識を移植して機械の中で「私」の意識が永続できるようになる、ということが書かれていました。また、数百年後の人類は「昔は「死」なんていう野蛮なものを受け入れていたのか」なんてことになるかもしれない、とも語っていました。
僕は、脳腫瘍の手術をした自身の体験から、脳について興味を持つようになりました。自分の体験を元にした記事もいくつかアップしたりもしています。なので、この記事にも興味を持ちました。
ただ、内容は興味深く読むことができたのですが、主張についてはあまり共感することはできませんでした。
まず、意識だけを機械に移すという点。これについては僕はできないだろうと思っています。別の記事(笑顔でいると脳が楽しいと勘違いする)にも書きましたが、手術のリハビリ中に脳と身体は相互に影響し合っていると感じる体験を僕はしました。そういったことから、意識と身体はセットの存在だと僕は思っているので、意識だけが単独で存在できるかどうかはちょっと疑問です。
また、不死についても実現しないだろうと思っています。もし実現してしまったら、社会は破綻してしまうのではないでしょうか。細胞が新陳代謝を繰り返すことで生命を維持するのと同様に、人類とか社会を維持するのに「死」は避けられないものなのかなと感じています。
死はたぶん、生命の最高の発明です。それは生物を進化させる担い手。古いものを取り去り、新しいものを生み出す。今、あなた方は新しい存在ですが、いずれは年老いて、消えゆくのです。深刻な話で申し訳ないですが、真実です。
これはスティーブ・ジョブスのスピーチの一部ですが、僕も同じように考えます。
確かに、身近な人の死や自分自身の死は悲しい出来事です。だからといって、もし自分が不死の存在になれたら幸せなことかと言われると、それは違うのではないかなと思います。
楽しい出来事を楽しいと感じられるのは、命が有限で限られた時間の中を生きているからなのではないでしょうか。永遠の時間があると、楽しい出来事があっても、どうせまた同じようなことがいつかは起きるだろうと思っていると楽しく感じられないような気がします。分数の分母を無限大にすると値が0に近づくように、永遠の時間は、すべてのことを薄めてしまうように思います。
結局は、限られた時間をどれだけ濃く生きることができるかが大切なんじゃないかなということを、この記事を読んでみて思いました。